【検証】北大「創基150周年」を考える
―北大がアイヌに負う現在の責任 私たちは巻き込まれただけなのか part2
part1はこちらから

2⃣学問の名の下に差別的な研究教育活動が行われ、それが正当化されてきたこと
アイヌ遺骨の収集の経緯 学問の名の下に
大学病院のすぐそば、その建物は道路わきにひっそりとたたずむ。北大アイヌ納骨堂。北大のキャンパスマップにこの建物は掲載されていない。

1931年北海道帝国大学医学部解剖学第一講座の山崎春雄元教授は人類学研究のため、アイヌ遺骨の収集を開始した。1865年英国領事館員が森町など2カ所で遺骨を発掘したのを皮切りに、88・89年には帝大医科大(現東京大医学部)の小金井良精元教授が道内各地で遺骨を発掘(盗掘)。1924年に京都帝大医学部の清野謙次元教授がサハリンで遺骨を発掘するなど、当時、本土の日本人とは違うルーツを持つとされるアイヌを、民族学的、生物学的に調べることは「社会的責務」だった。

1933年には、財団法人日本学術振興会(現在の独立行政法人日本学術振興会)学術部第八常置委員会第八(アイヌ)小委員会に「アイヌノ医学的民族生物学的調査研究」が発足。このニュースについて、北大新聞の前身、北海道帝国大学新聞にも以下の記事がある。

1933年には、第二講座の児玉作左衛門元教授(故人)が収集を開始。児玉元教授による収集はこれらのうち、最も大規模で、収集した遺骨は500体とも言われる。さらに遺骨だけでなく装飾品や衣服などの副葬品も収集された。収集活動中、「アイヌの墓地を盗掘している」と警察に通報されたこともあったが、道との交渉により「土地の管理者の承諾」があればよいということになり(人骨発掘発見ニ関スル規程、北海道庁令第83号」)、「合法的に」遺骨の収集は続くことになった。
また、児玉元教授の退官(1959年)後も、解剖学第二講座の教え子達の手によって1972年まで収集を続けた。小田教授は「比較的最近の出来事」だと述べる。
研究者らが収集した遺骨について、2019年に文部科学省が公表した「大学等におけるアイヌの人々の遺骨の保管状況の再調査結果」によれば、北大では942体と331箱を収蔵したとされる。「箱」とは頭骨がないなど、個人が特定できない遺骨が入った箱の事であり、北大はプラスチック製の箱に保管していたことがアイヌ納骨堂への収容後に指摘され、木箱に変えた経緯がある。
