ばらばらだった教養棟【#北大discover】
北大に入学した1年生全員が利用する教養棟。現在の姿になるまでには長い歴史があった。本学の歴史を紐解く連載企画「#北大discover」第3回ではそんな教養棟の歴史に迫る。
分散していた教養棟
現在の位置に教養棟が新築されたのは1963~64年のこと。それ以前は教養課程の講義を開講する教養学科(51年から教養部)の建物は構内各所に分散していた。
教養学科設立当初の49年頃からは旧医学専門部の校舎などを同学科の校舎として利用。だが、それだけでは建物が足りない。そこで50~51年にかけて第一~第六講堂の計6カ所を教養部の建物とし、主にこれらの建物で教養課程の講義が開講された。
教養部各建物の歴史
これらの各講堂は、どのような歴史を経て教養部の建物となったのか。(各講堂の位置は地図を参照)
第一講堂はもともと農学部の農業経済学農政学講堂として利用されていたもの。教養部の建物になった後、現在の教養棟が完成してからはサークル会館として利用されていた。しかしこの建物は火災により79年、焼失した。
第二講堂は農学部水産学教室として使用されていたもの。農学部水産学科が函館に移ったことで教養部の建物になった。
第三講堂は農学部昆虫学・養蚕学教室として使われていた建物。後にはインフォメーションセンターが置かれたこともある同建物は現在も残っている。なお、59年に第三講堂は古河講堂の隣にあった旧畜産学教室に移転した。
第四講堂は戦前に医学部付属の医学専門部校舎として使用されていた。現在この建物は残っておらず、跡地には現在薬学部付属薬用植物園がある。
第五講堂は水産学実習室として使用されていたもの。59年まで教養部の建物として使用され、後に桑園寮となった。
第六講堂は武道場として建築されたものを講堂として使用した。
しかし、これら6つの講堂だけでは教室が足りなくなり、55年からは林学講堂(古河講堂)を教養部の建物とし、ここを本館として管理部門などを置いた。他にも教室不足を補うため、現在のクラーク会館付近にあった中央講堂なども、教養部の建物ではないが、教養講義に使用された。
新館の建設と学生紛争
ここまで見てきたように教養部の建物は本学構内各所に分散していた。そこで、63年~64年にかけて教養部の新館が現在の場所に新築されることになる。
新館が建設されるとこれらの講堂は教養部としては使われなくなった。しかし、当初新館だけでは教官室が足りず、本館(古河講堂)には76年まで教官室が置かれ続けた。
新館が建設されて数年後の69年ごろには学生紛争が盛んになり、教養棟もその影響を受ける。入学式会場の占拠から始まった北大の学生紛争では、一時教養棟が占拠される事態となった。教養部の管理部門などは一時期かつての本館である古河講堂に移されたという。 教養棟は現在の場所に移ってからも複数回の増改築を繰り返し、現在の形になった。長い歴史を経て現在に至る教養棟。普段何気なく過ごしているこの建物も、北大の歴史の「生き証人」なのだ。
取材協力=北海道大学大学文書館